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【南森町雑記】本でマウントを取ります

ISSP国際共同調査(http://honkawa2.sakura.ne.jp/3956a.html)によると、2009年の日本における家庭の平均蔵書数は九十一冊だったそうです。私の住居にある蔵書はその平均より多く、大体三百冊くらいです。平均と比べて約三倍ですが、蔵書数は大した問題ではありません。問題は、蔵書数の約三十%が未読であって、本を買うペースが読むペースを越えつつある現況を鑑みると、未読率が上昇していくのは明白であるという事です。ここで言う問題とは、本とは主に文字で書かれた視覚的なメディアであって、そこに書かれた情報を読み取った時点で初めて本としての価値が生まれるという価値観に基づけば、私は大量の本を正しく死蔵しているという問題です。

そうなると読んでいない本を読み、読まないであろう本をしかるべき方法で処分することが最も合理的に思えてきますが、それは一面的な価値観に過ぎません。そもそも行動の一つ一つに理由とか合理性とかを考えるという嗜癖が健全とは思えません。

私が本を買って所有するのは何故か、それは本を所有することが格好良いことだと思っているからです。より速く走れるスプリンターが格好良いように、誰かと比べて優劣を争そうタイプの格好良さです。

 

例えば、私はヴォルフガング・イーザーの『行為としての読書』を所蔵しています。この本は恐ろしいことにAmazonでの中古価格が一万円です。希少な古本で利鞘を稼ごうとする人たちに複雑な思いを持ちながらも、私は一万円の本を所蔵していることを喜んでいます。Amazonの中古価格というかなり即物的な尺度からもたらされる喜びではありますが、それは私が本を好きでいるために必要な喜びです。付随して、難しい本や分厚い本を読み終わった時の優越感も重要です。特にその本が、限られた人しか読んでいないような、商業的には閉じられた人たち向きの本であればなおさら優越感は高まります。

本というものがそれなりに健全に持続可能なかたちで流通して欲しい私にとって大事なのは、買う側がどういう気持ちで本を買って使うかではなく、売る側が本を売るために、読者が本を使ってどのような気持ちになれるか宣伝すべきということです。前段で散々書きましたが、読者が本を使って勝手に気持ち良くなることが大事なのであって、気持ち良くなる方向についてガイドラインを作るような考えはナンセンスです。とにかく本が売れないと健全な読者・読書どころの話ではなくて、これは私の妄想ですが、本を買う人は一部の高額所得者だけになり、本がエシレバターのような限られた範囲に流通する嗜好品になってしまう未来が待っていると思っています。

 

もうしばらくは本をドカ買いする楽しみを手放したくないので、いっぱい本が売れて欲しいです。