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【南森町雑記】《海外文学アドベントカレンダー》終わら(れ)ない愛についての物語

そもそも愛って奇跡やん

(ヤバイTシャツ屋さん「ハッピーウェディング前ソング」)

 

いみじくもヤバイTシャツ屋さんのこやまたくやが言い当てたように、愛とは奇跡です。なんらかのタイミングで出会った生活習慣も訛りも異なるなんらかの人間同士が、ともすれば同じ家に住んで同じご飯を食べて同じストーブで温まる。凄いことです。愛の始まりの頃の爆発的な奇跡の後、徐々にお互いがどうも別の世界にいるような気持ちになっていって、それでもお互いの名前を呼び続けるような愛があるのだとすればどうなるのでしょう。あるいは終わら(れ)ない愛を語るとすればどのようなものになるのでしょうか。

今からそんな本の話をします。

 

 

 「母さんは父さんを愛しているよ」ダニエルは真剣にいった。「でも、離れるかどうかとは関係ない」

(『最後の恋人』P.309)

 

残雪『最後の恋人』(2014年刊行)は悪夢の作家と呼ばれる残雪の小説の中でも特に難解な小説です。

 

短編小説集の最高峰とも言える『かつて描かれたことのない境地』の影響で短編小説家として認知されがちな残雪ですが、長編小説も書いています。邦訳されたものだと『突囲表演』とこの『最後の恋人』があります。今回お話しする『最後の恋人』はこれまで邦訳されてきた残雪の作品と比べてだいぶ雰囲気が異なります。

訳者の近藤直子があとがきで書いていたように、残雪の小説はいずれも寓話です。もちろん『最後の恋人』も寓話です。では何が異なるのか。それは『最後の恋人』では、残雪の小説における現実世界の代表である政府が殆ど書かれていないことです。さきほど残雪を悪夢の作家と書きましたが、残雪が生み出す悪夢は、それに呑み込まれて心神を喪失するような悪夢ではなく、日々過酷な労働をして生きていかざるを得ない人たちだけが見ることの出来る悪夢です。悪夢を見る者はそこに囚われるばかりではなく、そこに憩うことも出来る類の悪夢です。残雪の小説世界には必ず存在した現実世界(とはいえ政府の人間は悪夢以上に意味不明な振る舞いをします。だからこそ現実の政府なのです。)というレイヤーが『最後の恋人』では不自然なまでに漂白されています。現実世界と夢の世界は激しく対立するものではなく、どこまでも夢の世界を補完する存在として現実世界が扱われています。

『最後の恋人』が残雪の作品の中でも特に寓話らしいのはこの漂白された、調和に満ちた世界のためです。

私は『最後の恋人』を数年の間を空けて二回読みました。一回目に読んだ時の、訳の分からない気持ちのまま文字を追っていた時のワクワクする感じは、残念ながら二回目に読んだ時に追体験することは出来ませんでした。(残雪にならって)現実世界に足をつけて冷静になって『最後の恋人』を読むとそれは、性的魅力は枯れないまま、それでもイケてる雄としての生命が終わろうとしていることを認められない男三人が放浪して死んでしまう物語でした。あらゆる性的に魅力のある女が影のように書かれる物語の中で、放浪する男の伴侶と執着する相手だけは明確な名前を持っていて、男たちの帰るべき場所として書かれています。

 

とはいえ、女は男を待つだけの存在ではありません。古麗服装会社の社長であるヴィンセントはかつての共同経営者であった妻を追いかけ、現実世界では追いかけきれずに夢の世界で妻と再会します。思い出したように妻の名前を呼んだとしても、結局は行く先行く先で調子良く新しい女と関係を持っていたのだとすれば、それは背信行為でしかないのでしょうか。無論背信行為です。しかし、死にかけの雄である男たちにとって行きずりの性行為が何らかの救いになることはありません。彼らは満たされない現実世界から徐々に身を離しつつ、夢の世界の中にいる伴侶と出会うこと(とはいえVRで出会うような直接的なものではなく、姿は見えないままで強く気配を感じるだけです。)に救いを見出します。お互いの十全に認められないところを可愛げと呼び替えて、良いとこ取り(というには足りないものが多すぎます。)が出来る夢の世界でだけ仲良くしようとするのは正に醜悪な態度です。畢竟、愛とは醜悪なのです。しかし、命を失いかねない放浪の最中あるいは自分の形を失いかねない悪夢の中で見出される愛は価値あるものなのでしょうか。少なくとも『最後の恋人』では、彼らの墓場の上で伴侶が憩うくらいには終わら(れ)ない愛であることが語られています。

 

もしも『最後の恋人』が「女に甘える男を好ましく思う旧時代的な価値観を抱えた女」を書いた小説なのだとすれば、それでこそ底意地の悪い作家である残雪の本領です。とはいえ何度も書きますが、そもそも愛とは気持ち悪いものです。旧時代的でも先鋭的でもそこのところは変わりません。だからこそ、真正面から愛と悪夢について語ったこの小説を読むと気恥ずかしい心持ちになるのでしょう。

地獄みたいな悪夢の中にいても、その人の名前を呼び続けて求めることこそが終わら(れ)ない愛なのだとしたら、『最後の恋人』は紛れもなく愛についての物語です。

 

ところで、判で押したように男女ペアが出てくる『最後の恋人』の中で、男男ペアが登場する章があります。第七章のことです。「障碍のあるハンサムな男で、金色のひげを生やした」青年であるニックと庭師ダニエルとのペアのことです。『最後の恋人』において、花園は夢の世界と現実世界を繋げる重要な場所です。ヴィンセントの花園も、ヴィンセントの右腕である古麗服装会社の営業部長ジョーの花園も立派なものです。しかし、ニックの花園は熱気球の籠の中に置かれたランの花の鉢だけです。堅実な庭師として活躍していたダニエルは、ニックの花園を「めちゃくちゃにしてもらおう」という欲望を叶えることが出来ませんでした。基本的にロマンスは達成されるこの小説の中で、ダニエルとニックだけは失恋するのです。

 

以上です。愛についての物語、残雪の『最後の恋人』を是非読んでください。

 

下記引用は『最後の恋人』の中で特に好きなところです。

 

「あなたの羊はどこにいるのですか?」

「ああ!」彼は夢から醒めたように答えた。「まだわからないのですか? わたしの夢の中ですよ」

「そうだったのですか」ジョーは少し失望した。

(『最後の恋人』P.114)