· 

【南森町雑記】映画『ぬいぐるみとしゃべる人は優しい』を見ました

金子由里奈監督の映画『ぬいぐるみとしゃべる人は優しい』(公式サイト)を見ました。

以下、雑感です。

 

この映画は、友人の女性から告白されて戸惑う七森の様子と、七森とぬいぐるみの出会いから始まります。ぬいぐるみは、たまたま近くにいた子供たちが落として(投げて)泥に浸かってしまったため、七森が引き取ることになります。

この場面で、子供たちに投げられてこちらに落ちてくるぬいぐるみをキャッチするために、七森は自分に向き合って告白の返事を待っている友人を押しのけます。結果的に、七森は泥に落ちる前にぬいぐるみをキャッチすることが出来ず、友人には尻餅をつかせることになります。人間(こちらは七森がぶつかったせい)もぬいぐるみもキャッチすることが出来ない人物、これが序盤の七森です。

 

友人を押しのけるところは、中盤のある場面とオーバーラップします。同じサークルで同回生の白城との会話で、白城が所属する別のサークルでセクハラがあることを話した時に、七森は「嫌なところにいたら白城が嫌なものになってしまう(大意)」と返します。白城はすぐに反論し、七森の傲慢さを指摘します。

このあたり、この頃の七森が「自分の思う嫌なものを糾弾すること」が持つ暴力性を認識していなかったように思えました。セクハラがあるサークルには悪いところはあるし、良いところもあるはずです。それは良い場所として語られがちなぬいサーにも悪いところがあることに繋がります。

例えば、地元に帰った七森が地元の友人から性的な揶揄をぶつけられて怒る場面がありますが、その前にぬいサーのメンバーから恋人の有無を聞かれた七森は戸惑うだけで怒りはしません。時間が経って七森が怒れるようになったと解釈することも出来ますがむしろ、総体として心地よい環境であれば個々の(些細に見えてしまう)暴力は抑圧されがちとも考えられます。

 

この中盤の場面があったからこそ、終盤に色々あって落ち込んだ七森が金髪に染めていてるのを見て「この人色々落ち込んでやることか髪を染めることなんだ……」って肩透かしを食らいました。自分をインスタントに変えたいって動機はあるだろうし、髪なんて染めたいだけ染めれば良いんだろうけど、金髪にすることと男性である自分の加害性について悩むこととの関係とは何なのでしょう。

 

この終盤の七森と麦戸が二人で話す場面は多分見せ場なんでしょうけど、二人が座りっぱなしで話していて、とにかくずっと動きがないので見ていて辛かったです。少し前の、白城と麦戸(とぬいサーの人たち)が着ぐるみをシンクで洗って干す場面が良かったのに、終盤でどうしてあんな動きのない感じにしたんでしょうか。

 

ぬいぐるみや着ぐるみを洗う場面(何回かある)はこの映画で一番特徴的な場面で、水の音も大きくなって、普段は人間から一方的に言葉をぶつけるだけの対象であるぬいぐるみを人間側がケアする場面だからかもしれません。でも、生き物っぽいフォルムのものを水に浸けて上げてしている光景って、どうしても拷問の水責めに見えて心穏やかでいられませんでした。そもそも七森とぬいぐるみの出会いが、投げ捨てられたぬいぐるみが泥水に着水するというものなので、始めからぬいぐるみと水(暴力や汚れ)と人間の物語だったのかもしれません。そして最後までぬいぐるみは、しんどい言葉=暴力を一方的にぶつけて良い存在として扱われます。

 

終盤で七森と麦戸が、「大丈夫だよ」や「分かるよ」を言いたいって言い合う場面を見ながら、私は出来ればどちらの言葉も使いたくないと思いました。その理由は、①他人が大丈夫じゃなくても他人が分からなくても、それなりに他人と生きていける社会の方が好きなこと、②他人のことを分かる存在にして良いと思うほど他人のことを信用していない、からです。

 

自分と他人(ぬいぐるみ)にはどうしようもない距離はあるけども、話したり一緒にいることでその距離を縮めたり寄り添っていこうというところでこの映画は終わります。

 

私は、自分と他人の距離を認識しながらも、基本的には他人との距離を作りつつ生きていける方が良いと思っています。それは例えば、この映画には登場していませんが、どこまでも価値観の合わない優しい人に直面した時に有効な態度だと思っています。